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表標題の上半分!

【九番山笠】

表標題:猛将幸村夏之陣(モウショウユキムラナツノジン)

人形師:生野 四郎

0627

以下の詳細は博多祇園山笠公式サイトからの引用です。

『真田幸村』(左衛門佐信繁)(さなだ・ゆきむら<さえもんのすけのぶしげ>1568~1616)
戦国時代、信濃北部を支配した真田昌幸の次男。父・昌幸は表裏比興の者と呼ばれながらも、近隣の大名、豪族から智謀・知略に優れた勇将と一目置かれ、北関東から信濃にかけて豊臣政権下でその勢力を拡大しました。幸村は父に従い各地を転戦。その初期は武田家に仕え、北条、徳川、上杉の諸大名と対峙しました。
関ヶ原の戦いでは豊臣秀吉の恩に報いるため父・昌幸とともに居城である信州上田城に籠城、中山道から関ヶ原に向かう徳川秀忠軍(後の徳川幕府二代将軍)を手こずらせ、関ヶ原への着陣を遅らせる原因をつくりました。
関ヶ原の戦いには参戦しなかったものの、昌幸・幸村親子は敗れた西軍に味方したため紀州・九度山に配流となりました。
彼の地では苦労の多い蟄居生活を余儀なくされましたが、ついに徳川と豊臣家が袂を分かつ時が到来。世にいう『大坂の陣』が起こります。幸村は好機とばかり筑前黒田藩を出奔し諸国を流浪していた後藤又兵衛(基次)や他の豊臣恩顧の武将等と総大将・豊臣秀頼の居城である大阪城に入城。南の大地に砦『真田丸』を築き冬・夏と二度の戦いで獅子奮迅の活躍をみせ、家康の陣にあと一歩のところまで迫ったと伝えられています。
後藤又兵衛も小松山の戦いにおいて、わずかの兵で徳川方の伊達正宗の大軍を大いに苦しめました。徳川の大軍を前にして幸村隊は戦いに敗れたものの、『日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)』とまで賞され、真田幸村の勇名は後の世に長く語り継がれています。

また、これらの人形づくりについては、同サイトの山笠うんちくー山笠用語集ーで説明してありました。

【人形づくり】

いずれの山笠も博多人形師が手がける。素焼きの人形に彩色する博多人形と異なり、等身大以上の武者、奥方、アニメの主人公のほか、馬・牛などの動物、きら びやかな館、岩こぶ、波、川なども作らなければならない。なかなかの力仕事だ。割った竹で骨格を作り、和紙を張って整えて彩色。_人形には博多織や金襴で つくった着物を着せる。頭(顔)や手は和紙やおがくずなどを固めて別に仕上げるが、最近はウレタン彫り、木彫りも増えてきた。ちょうど梅雨期が作業のピー ク。糊を多用するため、空模様が気になる。

あしたは下半分を撮る予定です。

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